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バーカーの名文を訳して

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『Rock&Snow』107号に、ジョン・バーカーがAlpinistに寄せた記事の拙訳を掲載してもらい、しばらくして数人から「読んだよ」と声を掛けていただいた。まさに彼らのようなクライマーに読んでほしいと願いながらたった4ページ分の文章に馬鹿みたいな時間をかけて翻訳していたので、報われたようなホッとした気持ちと、もっと上手く訳せたはずだという後ろめたさもあった。ありがたい感想と共に、「どうしてこの文章を訳そうと思ったのか?」という質問を多くいただいた。 バーカーの記事を見つけたのはまったくの偶然だった。 2009年4月に発行された『Alpinist 26』は、岩と雪やロクスノのバックナンバーに紛れて、ポツンと職場の本棚に置かれていた。不思議に思って手に取って開いてみると、ギリギリボーイズがアラスカで暴れまわったときの記録が特集されている。なるほどこれが理由か。さらにぱらぱらとページをめくると、「Bachar-Yerian」の記事に目が留まった。それがヨセミテにあるルート名だということもすぐには分からず、なんの気もなしに読みはじめてみると、その文体にたちまち引き込まれてしまった。一読して筆者を知り、もう一度じっくりと読んで、自然とこの文章を翻訳してみようと思い立った。 バーカーは30年近く前のその登攀を思い出しながら筆を走らせたのだろう。この文を綴った数ヶ月後、彼はマンモスレイク近郊でフリーソロ中に亡くなってしまった。 ジョン・バーカーという名は、日本のフリークライミングの興りについて語られるとき必ず出会う名前だ。1980年に刊行された『岩と雪』72号でMidnight Lightningを登る氏のグラビア写真が話題となり、いわゆる「バーカーショック」と呼ばれるセンセーションが巻き起こったという話も有名だ。それ以外にも様々な書籍や『Valley Uprising』などの映画でたびたび目にして耳にしていた名前だが、1997年生まれの僕にとっては歴史上の偉人でしかなかった。 僕がクライミングに出会ったころにはすでにこの世の人ではなく、現代に語られるバーカーの逸話や伝説は「むかしむかしあるところに...」で始まり、いつも盛大な拍手とため息で締めくくられている。たしかにとてつもない人物だということは分かるのだが、どこか違う世界に住む、別の死生観をもったエイリアンだった。 『岩...

百草丸

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2025年は記憶にないほど 冬らしい冬がきた。各地で雪が降りつづき、氷柱は大きく発達して厳冬期はその威厳を取り戻していた。 スキーヤーは歓喜して斜面にくりだし、クライマーは狂ったように壁に取り付いた。今年の米子大瀑布も当然、アイスクライマーたちで賑わった。例年はハードルの高い「正露丸」や「どぜうの詩」も続々と登りこまれ、アックスを叩き込んだ跡が途絶えなかった。 長く続いた冷え込みが終わりを告げるようにグッと気温を上げた2月の中頃、僕は地面に届いていない黄色い氷柱を見上げていた。わずかに東を向いているこの壁には朝日が注ぎ、上空をぬるい風が吹き抜けると、スノーシャワー(というより落雪というほうがしっくりくる)が次々と投下される。 credit:Suguru Takayanagi 今年は経験値、登攀力ともに自分よりもずっと上のクライマーと登ることが多い。おのずと登る対象は先輩の見出したものとなり、あとをついていくような形になる。 「百草丸」もスーパーアルパインクライマー(TKさん)の課題であり、僕のものではなかった。 5.10cの冬壁? 巨大な氷柱の真横で、クラックに素手でジャミングだって? そんな代物、自分にはまだ早いと思っていた。でもこうして温かい日差しの中で実物を見上げてみると、頭が勝手に作り上げていた余計な威圧感はなかった。 とはいえこれは自分の課題ではない。核心の岩パートはTKさん、僕は氷のピッチをいただいた。 出だしの凹角に乗った雪は 今朝の日差しで急激に腐りはじめていて、除雪が一苦労だ。 上から落雪が発射されるたびに「ラーック」と叫ぶのがビレイヤーの役目だった。 中間のテラスで短めにピッチを切り、カムを受け渡す。ここからが核心。 ユースケさんたちが初登時にたどった右のクラックにはベルグラが張っていてジャミングが効かない。気を取り直して雪が詰まった左のコーナークラックを登り出すTKさん。一度スメアしていたアイゼンが抜けてあわやと思ったが、咆哮ひとつ、なんとか耐えて登り切った。 プロテクションも適度にとれて、純粋にクライミングとしてかなり楽しいラインだとフォローながら感じた。 これで核心は足元にした。次のトラバースはⅣ級と聞いているし、氷で落ちることはあるまい。 もっとも氷柱までの数十メートルは雪に覆われていて判然としない。 TKさんがジリジリと左へ進んでいくが...

なにもする気が起きない

なんだか頭がどんより重い 最近空を黄色く濁らせてるあれのせいか 走ったり登りにいく気分でもないし、本を開いてもなにも入ってこない なにもする気がおきない うーん、料理でもするか レシピ見るのはめんどくさいから、少ないレパートリーのなかから何か作ろう 冷蔵庫を開けると、豆腐と油揚げ 野菜かごをのぞくと、ナスとエノキと人参が半分 とりあえず鰹節と水を鍋に入れて、IHのボタンを押す。ぐつぐつ沸くまでエノキを切る。油揚げを切る。ザクザク 出汁つゆを注ぎ、バラバラになった具材を無造作に入れる。エノキが一本こぼれ落ちる 豆腐を絞って、てのひらの上で井の字を描いたら鍋の中へ。お湯がはねてあぶない オタマ半分の味噌を取り、火を止めて箸でカチャカチャ。 蓋をして、ホッと一息 そういえば冷凍庫に鹿肉があったな 北海道の森の中に響く、二発のハーフライフルの暴力的な音。一歳のオスとメス。喉元にナイフを入れると、熱い血が雪面に小さな深い穴をあける。さっきまで生きていた瞳がいつのまにか濁ったビー玉になっている。魂が抜けた。 雪の上で解体するのは初めてだ。内臓から湯気がたちのぼり、冷えた手に血流が戻ってくる。みんなで皮を剥ぎ関節を外していくと、みるみるうちにバラバラになる。汗を流しながら穴を掘って、頭と背骨と毛皮だけになったシカを埋めた。 ビニール袋に包み、チルド便で山梨県に送られてこの冷凍庫にやってきた太ももの肉 ちょっと解凍してきた表面を包丁でこそぎ取っていく。溜まった肉片を、出刃包丁とナタで叩き切る。ダダダダダン、ダダダダダン カセットコンロにスキレットをのせて、ツマミをひねる。カチッと鳴って、ボボボッという音で炎がつく。IHを全部ガスコンロに替えたいといつも思っているけど、調べたことはない 花椒の粒を入れて、パチパチいうまで炒る。スキレットを振る手首がつらい。カリカリになったスパイスを入念にゴリゴリ潰すと、部屋中にピリッとした香りがたちこめる 茄子をさっと炒めて取り出したら、オリーブオイルをひきなおして、豆板醤とミンチにした鹿肉を入れる。 ここからは忙しい。擂ったニンニクと生姜、粉になった花椒を入れ、香りがたったら豆腐を... あ、豆腐の水を切り忘れてた。 火を止めて、豆腐をチンしてバタバタと水を抜く。 気を取り直してコンロのつまみをひねり、豆腐と溶いた片栗粉を流し込む。グツグツしたら火...

訂正とか習合とか

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チームプレーや勝ち負けにどこか虚しさを感じて、大学でふらっと入った山岳部からはじまった山登りと岩登り。それから飽きることなく続けている、というか気づけば人生の中心となっていたこの行為にはどんな意味があるのだろう?山の中ではまわりの自然と自分に真摯でありたいというこの切実さはどこからくるのだろう? そんなことごちゃごちゃ考えていないでただがむしゃらに登ればいいんだ、と思う自分もいるのだが、ほとんど意味のないような山登り、意味のないような人の生に思いめぐらせてみることになんとも言えない趣を感じるというか、そうせざるを得ないようなところがある。 2025年は面白い本との出会いがたくさん このよろこびを忘れないうちにしたためておかなければ。     とりわけ大きな出会いは、内田樹と釈徹宗の「日本宗教のクセ」という一冊。 本屋をぶらぶら、ふと目に入ってなにげなく手に取ったこの一冊から、少しずつ世界が広がりはじめた感覚があってなんだかワクワク。 大好きな人の本棚に何冊か並んでいた内田樹という名前に、 「うちだ、き...?」 と思ってなんとなく頭の片隅に残っていたことがこの本と出会ったキッカケというのも嬉しい。 「日本宗教のクセ」は二人の対話を文章に書き起こしたもので、「習合」をキーワードに、外から来た新しい概念をやんわりと取り込んでいく日本をゆるく語っていく。 仏教や神道に前から興味はあったが、なかなか複雑な上にデリケートで手を出せないと思っていた。でも本当はもっと人々の生活に根ざしたもので、それぞれの時代や場所で都合よく解釈されて信仰されてきたのだと分かると急に親しみが湧いてくる。 この本と出会う少し前に、東浩紀の「訂正可能性の哲学」を読んだ。 過去を書き換えるのではなく、過去の出来事を再解釈して現在を見つめなおす「訂正」という力がもつ魅力。 この2冊が自分の中で交差して、ぼんやりしていた輪郭がかたちを成しはじめてきた。 日本に仏教が入ってきたとき、土着の信仰である神道の神様は 実は仏様の化身だったのだ として神仏習合させた本地垂迹説なんて、まさに「訂正」そのものではないか。 それからこんなことを思いついた。 アルパインクライミングを密教や修験道と「習合」させて、いま自分が熱を上げている山登りを、古来から脈々と受け継がれてきたものと接続して「訂正」できないだ...

寒くて熱い

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 冬壁7年目?にして初めての明神岳2263峰を訪れた。 パートナーは、おそらく2023年のヒマラヤで最も強烈なクライミングをしたであろう(なのにあまりメディアに取り上げられなかった)Kさん。 強い寒気が入りまとまった降雪がある予報だったので、雪崩リスクが一番低いと思われる南壁で二日間遊ぶ。初日は一番右の巨大なジェードル。冬期クライミング本の「南壁右大ジェードルルート」と思って取り付いたが、残置もなければ体感グレードはかけ離れているし、どうやら違うようだ。 雪のルンゼを詰めて立木まで一ピッチロープを伸ばすと実質クライミングスタート。浅い凹角状に生えた草付きをつないでまっすぐ上がる楽しいピッチ。なるほどここは明神、噂通りプロテクションはあまりとれない。欲張って60m近く伸ばしていま一つのところでアンカーを作る。岩が脆くて体重をかけるのをためらうような感じで、もう一段下でピッチを切ればよかった。 次のピッチはKさんの番。 真上は凹角が張り出してルーフ状になっているので、左のスラブに出て上がっていく。優しく正確なフッキングと足置きにほれぼれする。小指くらいの灌木にスリングを巻き、なんとも言えないカムを一つきめて見るからに際どいムーブで着実に登っている。この辺りから急速に天候が荒れはじめ、風が強さを増していく。Kさんが視界から消えて少しすると、ロープが止まった。雪をまとった白い爆風がジェードル内で渦を巻く。なにかあったんじゃないかと不安になりかけると、わずかにロープが動く、その繰り返し。どれぐらいたったか、強烈な寒さで手足が麻痺してきたころ、風音に交じって獣のような哮りとガチャの揺れる音が聞こえ、頭サイズの石が降ってきた。ビレイする手を握って身構えたが、どうやらKさんは耐えたようだ。その後も細かい落石を散らしながらちょっとずつロープが流れていき、やがてするするとロープが引かれて無事に悪場を抜けたことを悟る。 フォローしてみて、プロテクションの貧弱さと岩の脆さに愕然とした。そのうえおそろしくデリケートなフッキングが連続し、最後には崩れかけの小ルーフ越えが待っていた(実際フォローののっこしムーブでリップに膝をのせたら、ルーフが半分くらい崩れた...)。しかもこの風である。ほとんど立っているのもやっとという突風が、クライマーを上下左右からひっきりなしに振り落とそうとしていた...

人間劇場

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 多様性ってのは色んな人がいるってことじゃなくて、ひとりの人の中に多様な面があるということ という話を奇奇怪怪のどっかのエピソードで言ってて、ふんふん頷けた(んだけど文にして書くと陳腐に見える) 今更ながら栗城史多のドキュメンタリー「デスゾーン」を読んで、なんとなく実感した 栗城さんは自己表現の沼で窒息した3.5流の登山家(仮)というくらいのイメージでしか知らなかったが、そしてそのイメージは読後も変わらなかったのだが、 ただの「自己顕示欲の成れの果て」というラベルで括るには人間的すぎた 栗城さんのしょうもないところ、魅力的なところが切り離せずに描かれてくると同時に、筆者の河野さんのぐらぐらした人間像も浮かび上がってきて面白い ひとは歳月を経てどんどん変わっていくものだし、Aの主張をしながら反Aの行動をするような自己矛盾をいつも抱えているという、当たり前のこと かんがえてみれば、自分の中に躁うつ病的な地下室人的なところをいつも見てるくせに、他者にその感覚を投影することはほとんどない そのほうが分かりやすいし生きやすいから「アイツはこういうヤツ」って思っててもいいんだが、あくまで「便宜的にそう考えておいてるだけ」っていうアスタリスクを忘れないようにしておこう 東浩紀は「訂正する力」という本で、「訂正するひと」になれと言っている。訂正するひととは、「保留する力」のある人だとも言えるのではないか あの人は「○○な人」とラベリングすると、その人のあらゆる言動がそのラベルに吸収される。 ラベル付けすると理解しやすくなり、エネルギーを節約できる。 一方で、別の一面が見えたときにそのラベルを「訂正する」ことは難しい。 枠にはめてしまうと、枠から出すことに大きなエネルギーが必要になってしまう そういうラベルの付いた枠に入れることをせずに「保留する」 あの人は○○な人の面もあるけど、まだ違う面もあるかもしれない。これから変わっていくかもしれない。それは亡くなった人に対しても同じだ そもそも「○○な人」はニガテだという自分がまた変わるかもしれない ジャッジせず、ラベル付けせず、保留する それはたぶん、人間っておもしろいなぁ、くらいの感度で生きていくこと。

クライミングのセンス?

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 千葉雅也の「センスの哲学」を一気読みした。 ほんとに読了ほやほやなので全然まとまっていないが、ぽつぽつと頭に浮かんだ考えを吐き出してみようと思う。 とりあえず要点を書き出してみると、 ・センスとは、価値観はいったん脇に置いておいて、直観的なリズムに身を任せること ・リズムは非連続的(存在/不在)なビートと連続的(濃/淡)なうねりから成る ・リズムには一定の反復(予測可能性)と、そこからのズレ(予測誤差)があるから面白い ・遊びにはこのズレをシミュレートして、ある程度の外れ値にも慣れる機能があるといえる ・ヒトには生存本能に矛盾するフロイト的「死の欲動」があり、ズレのストレスを楽しむラカン的「享楽」をもっている ・反復とズレがほど良いバランスだと「美的」になり、ズレ(予測誤差)が許容範囲をこえて大きくなってバランスが崩れると「崇高的」になる ・遊びやゲームはあくまでも目的志向で、ハードルをわざわざいくつも作ってそのサスペンス(緊張状態)を楽しみながら目的達成の楽しさをシミュレーションする 芸術はその宙づり状態(サスペンス)のほうに重きを置いて「享楽」を楽しむ 垂直移動バカなのでやはりどうしてもクライミングのことだと思って読んでしまうんだけど、スポートやトラッドで「面白い」と感じるルートの条件にはリズムの良さがあると思うので、センスをリズムで定義するのはわりと直観的にわかる気がする。 もう少し深読みして、アルパインクライミングは芸術行為となりえても芸術作品を作るわけではないという前提で考えてみると、 登山やクライミングは、ピークあるいは完登という「仮の」目的を設定して、そのプロセスをわざわざ引き延ばし遅延して楽しむ遊びといえると思う。 さらに「登り切る」という目的意識を弱めていく(自己目的化する)ことで、偶然性に開かれてより芸術的な行為になるともいえる。 オリジナリティをもって登るとは、大自然という「崇高」な世界のなかで自分が面白いと思えるリズムをもっていそうなラインを探して、美と崇高のきわを捉えること、そして予測不可能なズレを楽しむ余裕を広げていくことではないか。 と、なんとなく結論めいたものを出してみたが、まるで間違った理解をしている気もする。 それはそれで新しいものを生むかもしれない「誤配」ということでご愛敬。