訂正とか習合とか

チームプレーや勝ち負けにどこか虚しさを感じて、大学でふらっと入った山岳部からはじまった山登りと岩登り。それから飽きることなく続けている、というか気づけば人生の中心となっていたこの行為にはどんな意味があるのだろう?山の中ではまわりの自然と自分に真摯でありたいというこの切実さはどこからくるのだろう?


そんなことごちゃごちゃ考えていないでただがむしゃらに登ればいいんだ、と思う自分もいるのだが、ほとんど意味のないような山登り、意味のないような人の生に思いめぐらせてみることになんとも言えない趣を感じるというか、そうせざるを得ないようなところがある。



2025年は面白い本との出会いがたくさん


このよろこびを忘れないうちにしたためておかなければ。


 
 


とりわけ大きな出会いは、内田樹と釈徹宗の「日本宗教のクセ」という一冊。


本屋をぶらぶら、ふと目に入ってなにげなく手に取ったこの一冊から、少しずつ世界が広がりはじめた感覚があってなんだかワクワク。


大好きな人の本棚に何冊か並んでいた内田樹という名前に、

「うちだ、き...?」

と思ってなんとなく頭の片隅に残っていたことがこの本と出会ったキッカケというのも嬉しい。


「日本宗教のクセ」は二人の対話を文章に書き起こしたもので、「習合」をキーワードに、外から来た新しい概念をやんわりと取り込んでいく日本をゆるく語っていく。


仏教や神道に前から興味はあったが、なかなか複雑な上にデリケートで手を出せないと思っていた。でも本当はもっと人々の生活に根ざしたもので、それぞれの時代や場所で都合よく解釈されて信仰されてきたのだと分かると急に親しみが湧いてくる。




この本と出会う少し前に、東浩紀の「訂正可能性の哲学」を読んだ。


過去を書き換えるのではなく、過去の出来事を再解釈して現在を見つめなおす「訂正」という力がもつ魅力。



この2冊が自分の中で交差して、ぼんやりしていた輪郭がかたちを成しはじめてきた。


日本に仏教が入ってきたとき、土着の信仰である神道の神様は 実は仏様の化身だったのだ として神仏習合させた本地垂迹説なんて、まさに「訂正」そのものではないか。

それからこんなことを思いついた。


アルパインクライミングを密教や修験道と「習合」させて、いま自分が熱を上げている山登りを、古来から脈々と受け継がれてきたものと接続して「訂正」できないだろうか。


修験道なんてこれまでまったく触れてこなかったが、自然の厳しさに向き合って、自分がぎりぎり許容できるかどうかの「きわ」を探すこの登攀という行為にはどこか深いところで通底するものがあるような気がしてならない。


そしてクライミングを自分のアイデンティティを強くする手段やキャリアみたいなものとして捉えるのではなく、「我執を捨てる」道筋として考えてみたい。

無我の境地、なんて大げさなものではなく、日々の営みとして登るような感じでしょうか。


今はただ思いつきを書いてみただけだが、うっすらと先人の足跡が見えてきたこの山を、焦らずのんびり登ってみよう。




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