反自伝的
四月はパタゴニアのイベントが三つ四つ立て続けにあり、やたらと自分の人生を語った気がする。
どこで生まれ育ち、どのようにクライミングと出会い、これからどんな山へ向かうのか。
回を重ねるごとに語りは洗練されていき、我が人生の「転換点」を取捨選択してストーリーを作り上げた。
どんな話をしたかというと、まず大学の山岳部でクライミングを始め、四回生のとき登った一月の北鎌尾根での遭難未遂で山屋としての自覚が生まれ、卒業後は川上村のカラファテで働くことで毎日のように登る日々を実現し、南米パタゴニアの遠征から毎年海外のアルパインを軸に生活していくようになる、云々かんぬん。
だいたい十分から二十分ほどの尺で自伝的な話をしたが、もっと長くなっても大方の流れは同じだろう。
しかしこの嘘臭さはなんだろうか。単なる自意識の問題ではないはずだ。ある人物に焦点を当てたインタビュー記事などでも、その人の現在の活動につながる過去の出来事や生い立ちが系統立てられた物語として書かれるが、大抵の場合うさん臭くなってしまう。
人々に分かりやすいように過去から現在や未来への因果関係が整理されて一本の流れができあがる。イベントを通して自分語りを続けていくうちに、(というよりも自分を語るために人生を振り返り、あれがここに繋がっていたのか、と思い直したりして自分を騙るうちに) いつの間にか本当にそんな流れの上で生きてきて、その流れの行先が規定されていくような薄ら寒さというか恐ろしさを感じた。
美しい人生に回収されないために、あるいはそう誤解されないために念のため書き起こしておこう、というほど大袈裟なものではないが、僕の人生は物語ではなく、もっと断片的で、ぶつ切りで気まぐれなものだったし、これからもそうだということ。
例えばいまはガストで本を読みながら店員の少なさに驚き、猫の顔をしたロボットがやたらと大きい音を出して配膳してくれたチーズinハンバーグをひとり食べているところ、セルフレジで会計を済ませた家族が退店する間際に小さな子供が「ごちそうさまでしたー!」と人間である店員の声で返事があるまで叫んでいる光景になぞのエモさを感じている。
基本的には誰もがそういう人生に回収されないくだらない日々を生きていて、福尾匠がいう日記的でイベントレスな生活が実情なのだと、ともすれば忘れがちなくらい他人と自分の解像度が低くはなりたくない。
ところでさっき僕は物語を揶揄したように見えるが、ここで引用したそれはエンディングに向けて入念に展開されていく論理的なストーリーのことで、筆を走らせていくうちに登場人物が勝手にドライブしていってカオスに突入していくような物語は好きだ。だからどうしたという話だけど、だからどうした性も好きだ。
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