開拓クライマーへの苦言(if not 大言)
クライミング界の福田和也に敬意を表して
2002年生まれの山口一郎にみのミュージック返しはしませんが、ひっそりと彼の背中に隠れつつ、(違和感を抱えながらも声を上げなかった腑抜けである)私も自分の立ち位置を表明しておこうと思います。
というか彼の意見に概ね同意なので、ほとんど言い換えに近い。キツい言葉で焚きつける損な役回りは彼が引き受けてくれたので、こちらは淡々と思うままにこっそり書くだけで気楽なもんです。
開拓について
まず誤解されないようにはじめに言っておくと、ルートを開拓する際の自分の姿勢として「自分が登りたいから拓く」という考えが一番前提に来るべきだと思っている。
そのうえで、自然を人間界に寄せるのではなく、人間が自然の側に歩み寄るという姿勢がなにより大事だ。これは開拓に限らずあらゆるアウトドアアクティビティ、いやむしろあらゆる人間活動にいえる。
さて、小川山や瑞牆を登っていればよく分かるように昔から目を疑うような開拓は行われていた。
5mの岩に打たれたボルトや、手を伸ばせば届く距離に似たような別のボルトルートが並行していたり、ラインに干渉する大木が切り倒されていたり...。そういうルートに直面するたびに「もったいないなぁ」と感じていた。
これはあくまで友達が言っていたんですが、中にはこれまで開拓してきた(登るに値しない)ルートの数を恥ずかしげもなくひけらかす人もいるという。
やれやれ。(と友達が言っていた)
そのような状況が改善されないまま大衆化や世代交代によって安易に現代に引き継がれてきてしまった感がある。
いわゆるヨセミテのストーンマスターズたちの築いてきた倫理観を無視して早い者勝ち理論を振りかざすクライマーの流れとは別に、職場を確保したいガイドの言い訳がまかり通る現状も見逃せない。その背景には、公園の遊具撤去にみられるような日本のリスク管理能力の劣化があるのではないだろうか。
あるいはクライミングジムの発展で岩場をジムの延長と勘違いしているようにも見受けられる。繰り返しになるが、岩場はジムの延長ではなく、ジムが岩場の延長線上にあるだけだ(いや、その延長にもないか)。
最近の岩場では数々のルートを手がけてきた影響力のあるクライマーが開拓に明るくない人々を募って開拓の作法を教えて、一気にルートを量産してエリアを作り上げている。
その作法が立派なものであればこれはむしろ喜ばしいことだが、なかなかどうしてそうはいかない。
ルート量産型開拓クライマーが世に出した作品は往々にして節操がないものがほとんどだが、タチの悪いことに数打ちゃ当たるで、ときおり名作を生み出してしまうがために権威を高めることになる。
もちろん中には、ん〜おもしろい!と唸るようなルートをたくさん作る方もいるが、やはり人間必ず慣れはあるもので、そうしたルートを登っていても岩に穴を開ける感覚や草木を殺す感触は多かれ少なかれ麻痺しがちになっているように感じられる。
そして量産型権威クライマーに「とりあえずバーっとボルト打って、微妙だったら打ち直せばいいんだよ」と言われれば、ふーん、まぁそういうものか、と脳死するのも無理はない。
開拓を教えてくれる人がいない、よしんば運良く教わることができてもその人物が信頼に値するかも分からないとなると、一体どうやって開拓をはじめればいいのか。
ひとつ思いつくのは、しかるべき資格をこしらえ、厳しい倫理観を持つ有識者たちで団体を作り上げて正しい技術を継承するシステムを構築するという案。
技術やルールはしっかり教えるとして、画一的、マニュアル的に伝えるのではなく、それぞれの思想を投影できる余白を残せるとなおよい。
ただ個人的にはこの案にあまり魅力を感じられない。そもそも岩資源が限られた日本でこれ以上多くのルートをわざわざみんなして拓く必要などあるのだろうか?開拓は少数の物好きがリーチできる領域としておくことにこれといった不都合はないと私は思う。
でももしイチ個人として魅力的な岩に出会ってしまい、ルートを拓きたい!となったときはどうするか。どんな間隔でボルトを打つか、あるいはカムやナッツが使えるから打たないべきか、それともグランドアップで登れる可能性があるのか、といった数ある選択肢のなかから、様々な要素を鑑みて選び抜く必要がある。複雑すぎてどこから手を付けていいか分からないし、下手に拓こうものなら大御所の逆鱗に触れたり、目をキラリと光らせた新進気鋭の若者に真正面から刺されかねない。
ではどうすればより良い選択ができるかといえば、これは件のブログの「クライミング文化におけるコンテキスト」という話に繋がるが、やはり良いルートをたくさん登るしかないだろう。
当然、じゃあ良いルートってどれなのよ?という疑問がある。それに対して、これだ!という目から鱗の妙案は(少なくとも自分には)なく、地道にクライミングコミュニティ全体で評価していくことが大切だと思う。
よくできたガイドブックの⭐︎の数も参考になるが、せいぜい狭いコミュニティのなかで数人の意見が反映されているにすぎないので、なるべく古今東西いろんな人の賛否があると望ましい。といっても近場で同じルートを登った人とちょっと会話をもってみるくらいが現実的なところだろう。ボルダーやルート一本分くらいの評価ならSNS上でもなんとかできるかもしれない。
それからもちろん昔の文献や尊敬するクライマーの文章などを読み歴史や文脈(コンテキスト)を学ぶことも大いに役立つ。登って面白いと感じたラインの初登者の名を調べて、それとなく追ってみるのもいいかもしれない。
いずれにせよ良いものは良い、ダメなものはダメと(人格否定ではなく)ルート単位で批評することはまったく健全で、批評する側もされる側も互いに(あくまで互いに)リスペクトさえ忘れなければ人間関係が壊れたり憎悪が生まれることはない(はず)。
スタイルの順序
どこかで話したけど、クライミングにおけるいわゆる「スタイル」に優劣はないと思っている。「ラッペルボルトよりグランドアップのほうが偉い」というのは間違っている。たとえグランドアップで登られたルートだとしても、その登攀がやっつけの無謀なトライで奇跡的に落ちずに登れただけだったら私はそれを評価しない。ボルトルートにしろトラッドルートにしろ、ラッペルで開拓された素晴らしいルートはたくさんある。たとえば、ハイボールとして登れるからといってランディング面の木々をぶった斬って根こそぎ掘り起こして、それが岩に穴を開けるよりも節度ある行為だとはとても思えない。
スタイルに優劣はない。しかし開拓にあたって考えるべきスタイル(というより方法?)の順序はあって、基本的に倫理規範の厳しい順に検討すべきだと思っている。まずグランドアップで登れるかどうか、それが自分には危なすぎると判断したら、上から回ってリムーバブルプロテクションがとれるかを入念に探し、どうしてもとなってから始めて、ボルトを打ってまで登るべきかどうかを考える。
あたかも立派な有識者のように雄弁に語ってはみたものの、自分が拓いたルートには正直自信がない、というか揺らぎ続けてる。
終了点はあれでよかったのか?あの小さな木を引き抜く必要はなかったのでは?もう一本ボルトを打つべきだったのでは?
などと事あるごとに考えたりしてしまう始末で、明確な答えを提示することは一生できない。
それでも私は正解なき問いを考え続けること、あるいは暫定的な答えを更新し続けることがクライミングという遊びの魅力だと思っている。
だからこそ各人がそれぞれの(そしてその時々の)考えを伝えることは意味があると思うし、キャンセルカルチャーのように一度のあやまちで相手の人格ごと否定して断罪するようなことはおもしろくない。
なんら新しさもないどころか何も言ってないようなものだと言われればその通りかもしれないが、これが私の忌憚ない意見です。
そしてたとえ新しくとも面白くともなくても、(結果はどうであれ)人を傷つける意図のない忌憚なき意見は何度でも言っていいし、言うべきだと信じている。
4/3追記
自己批評してみると、上に書いたことは理想論に近い。
想定されているのは、あくまで関東から甲州あたりまでの限られた地域に偏っている。しかもすでに開拓の手が入っているエリアで、さらにルートを拓こうとする場合を念頭に置いていた。
先日、とある有名クライマーが開拓の流れを解説している動画を見た。
実際にエリアを一から作り上げるには、地権者を探し、交渉し、地元の人々の理解を得る必要があり、公開エリアとするならば、その後に駐車場やよそ者がやってくるリスクに似合う価値をその土地に示さないといけない。
その方は多くのボルダーエリアをしっかりと公開できる形で拓いてきた巨人であり、彼の言うことは頷かざるをえないことがほとんどだった。
でもやっぱり、どこか諸手を挙げて賛同できないところがある。
みんなが使う岩場をみんなで維持する、という論理はわかる。
競技人口が増え、いわば強者の理論で成り立っていた「リスクを味わう」ようなクライミングの肩身が狭くなっているのも分かる。地元の理解を得るにはなるべく事故を起こしてほしくないのも分かる。地元の子供たちがその岩場でクライミングに触れて成長するのは素晴らしいことだ。
そのほかにも色々と大人の事情があるのだろう。現実と折り合いをつけて、多くの葛藤を越えて行動に移してきたのだと思う。
それでもやはり、あえて理想論を述べさせてもらうならば、人間側の都合すぎやしないかと思ってしまう。
もちろん老若男女LGBTQIA+みんなが和気藹々と楽しめる安全な岩場は素晴らしいが、それにしてもわざわざ大掛かりな土木作業をして自然を改変してまで作り出すものではない。それはテーマパークや遊園地と同じだ。外的リスクが排除された環境に浸かりすぎると、ヒトの危機察知能力が衰えていく。
そもそもクライミングは、フリーにしろアルパインにしろ沢にしろ、自然が提供するものをなるべくあるがままに受け入れる遊びだ。その意味では下地の大岩を重機でどけたり鉄パイプで足場を作ったりするのはチッピングと大差ない。
いくらその岩が魅力的でも、下地が絶望的ならトップロープでやればいい。納得できなければ自分を鍛えて、しかるべき時がきたら挑戦すればいい。場所によっては雪が積もっておあつらえ向きのランディングを作ってくれるかもしれない。それでもだめなら、潔く諦めるべきだと思う。
日本のクライマーが岩しか見えていないというのはおかしな話だ。昔からこの国では森や木々や岩に神々が宿っていると考えられてきた。クライミングにはどこか修験道の山岳修行や滝行に近いところがあり、自然を超越して克服する行為ではなく、その偉大さを全身で感じて自然に近づき、回帰しようとする(あるいは己の身の程を知る)遊びが岩登りだと思っている。これは宗教の話というより、風俗の話だ。厳しい自然の中に身を置いてきたクライマーなら、その畏怖の念を持ち合わせているはずだ。ギリギリのところで岩や山が登れたときには、自分の実力で陥れたのではなく、たまたま自然が登らせてくれただけなのだと知っているはずだ。
「それじゃあ、苔も落とさず登れっていうのかい?」
「チョークは自然にとって害悪だろ」
極論を言いたいわけじゃない。人と自然が二項対立だとも思ってない。
結局自分の欲求と自然との間にどうにか落としどころを見つけなきゃいけない。
ただ自然に対する畏怖と敬意を忘れてはいけないと、それだけの話なのだけど...
これは理想の語りすぎだろうか?俺がまだ尻の青いクソガキだから分からないだけなのか?
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