昼下がりの情事

  10月23日、"Trainspotting"のすぐ左脇、顕著なコーナーのプロジェクトを完登することができた。ルート名は"Lunchtime Affair"、意味はお昼時の行為(情事)といったところ。去年のナナファテ勤務体制で土日祝の昼休みが3時間あり、その間にしこしこ掃除しに行っていたことになぞらえた。このルートに関してだけかもしれないが、開拓はなんとなく性的な関係に似ている気がした。


 隣の"Trainspotting"と雰囲気は似ているが、とりわけ大きく違う点はボルトの存在だ。そもそも去年までの自分は、今後の人生で一度たりともラペルボルトを用いた開拓行為はしまい、と強く思っていた。それなのに今年の9月になって、突然ぽんっと「ボルトを打とう」という考えが頭に浮かんで、手打ちキットを買うやいなやすぐにぶら下がっていた。その決断は二年間の熟考の末だったとはいえ、ボルトを打ち込んでから登るまではその理由がいまひとつ分かっていなかった。しかし完登して数日経ち、ぼんやりと見えてきた輪郭を、不完全なままではあるが忘れてしまわないうちに描いてみようと思う。


 考えやすいように整理してみると、ポイントは「ルートとしての完成度」、「心身の弱体化」、「承認欲求への抵抗」あたりか。

 一つ目と二つ目は分かりやすい。まず「ルートとしての完成度」は、岩質の脆さと合理性のバランスのことだ。握り込んだり踏んだりする分には全く問題ないが、リムーバブルプロテクションでフォールした際には岩ごと吹き飛ぶリスクが、ほとんどどのプロテクションセットにも内在していた。そもそもセット自体がかなりトリッキーで、未来のクライマーにグランドアップで登ることはとてもお勧めできない代物だった。ランナウトの距離自体は"Train"の方が長いが、固めどりして突っ込めるのでメンタルの強い人ならビッグフォールの予感を楽しめると思う。それに比べて"Lunchtime"は、どこまでが安全でどこからがヤバいのかが判断できず、ほとんど賭けに近いクライミングになってしまう。いうなればフリーソロと大差ない。もちろん徹底的にムーブを固めて絶対的な自信をつければボルト無しで登れるが、それにどんな意味があるのか?

 二つ目の「心身の弱体化」については、9月時点で去年の秋に比べて身体も精神も圧倒的に弱っていたというだけのこと。落ちずに登る自信がなかった。カムを信頼できなかった。それはボルトを打つ決断の後押しにはなったが、本質的にはあまり意味がない。実際、10月の自分はおそらく心身共に去年より強くなっていたと思う。


 問題は三つ目、「承認欲求への抵抗」だ。これはラインを掃除している時からずっと心の隅で感じていたが、言語化できていなかった部分。今振り返ってみると、比較的クリアに見えてきた気がする。

 まず一番最初にほったらかし岩のこの壁を見た時に心惹かれたのが"Lunchtime"のラインだった。どことなく"Ninja"を見上げた時と似た魅力を感じて(結果的に内容は全く違ったが)、同時にボルト無しでは登れないだろう思ったのを覚えている。それはつまり当時の自分にとっては、開拓をしない、もしくはトップロープ課題として登る、という二択しかなかったことになる。それでもやはり上からぶら下がってわずかな可能性を探らないわけにはいかないほどの色気を醸し出していた。だからこそ掃除をしながらどうにかカムやナッツが決まりそうな隙間が次々と出てきたときにはとにかく興奮した。これはオールナチュプロで登れる!と思うと居ても立ってもいられず、雨だろうが死ぬほど眠かろうが時間があればぶら下がりに行った。ムーブを探っていくと、どうやら5.13はありそうだ。それにプロテクションはシビアでランナウトも激しく、「R」が付きそうだということが分かった。E-Graderにグレードと危険度を入れてみると、「Easy E10」と出た。おそらくはその時から、ある気持ちが芽生えてきた。

 「これはすごいルートになるかもしれない...!」

 それは取りも直さず、すごいルートを拓いたクライマーだと思われたいという気持ちの表れだった。でも去年の段階では、やってやるぞという想いが強く、シーズンが終わりかけている焦りもあって自分の気持ちを深く顧みる余裕がなかった。そう思うと、去年登り切れなかったことで、自分を見つめなおす機会が与えられたともいえる。

 2024年になったが、春に膝を痛めてペルー遠征を控えていることもあり危険なこのルートは後回しになった。そしてキタラフでの登攀が、承認欲求の危うさと浅ましさを今一度考えるきっかけになった。クライミングに向かうときもその最中も、他人の眼や期待や評価を気にするなんてしょうもない。それは良いクライミングができたあとに、伝えたいと思う人たちに共有することとは違う。岩を登る、山に入るときは、全身全霊でその体験を味わうためにそこにいるのだ。

 そんなことを再認識して、この壁の前に戻ってきたとき、エクストリームなことをやってのける自分という承認欲求が首をもたげていることに改めて気が付いた。ボルトはそんな自分を破壊するためだった。ハンドドリルで必死になって岩に穴をあけながら、承認を求める自分を殺そうとしていた気がする。岩には申し訳ないことをしたが、ルートには誠実になれた。

 それは同時にカテゴライズされることからの逃走でもあった。

 少し話が逸れるようだが、ジャンボさん初登の"カエルム"を登った時、いつか自分もこんなフリークライミングのルートを初登したいと強く思った(そんなようなことを瑞牆クライミングガイドブックにも書いた)。そのときは、壁に残置物が一切なく、地面からトライすることができて、ランナウトに耐える精神力を求められる、そんな要素が重要だと考えていた。とりわけ終了点を含めて残置物ゼロで、登る人がいなくなければ完全に自然に還るようなその儚さに魅力を感じた。その意味では、ボルトを埋め込んだ"Lunchtime"は、理想とするルートとは隔たりがあるように見える。でも"カエルム"を登って感じた自由な気分は、もっと内的な要素に影響されていた。"カエルム"のトライは確かに上から下見することなく登っていったために次の一手に未知の要素があり、それをランナウトで乗り越えていくという面白さがあった。でもこのトライをグランドアップと言うのは少し抵抗がある。グランドアップと呼べるのは、落ちるたびに地面まで降りてロープは抜かずにフリーで登り返す「ヨーヨースタイル」までだろう。この時はフォールすれば最終プロテクションまでロープで引き揚げてもらい、そこから再トライしていた。つまりハングドックだ。

 でも"カエルム"のトライはとても自然なスタイルに感じた。そして完登が嬉しかったのは、「すごいスタイルで登れた」からではなく、「すごく良い体験ができた」と感じられたからだ。それは「グランドアップ」という言葉も「ハングドック」という言葉もしっくりこない、いわばそういうカテゴライズをすり抜けた、名状しがたい体験になったから。「グランドアップでの完登」という分かりやすい価値が現れていたら、もしかすると承認欲求の罠に捕らわれていたかもしれない。

 "Lunchtime"に話を戻すと、ボルトを打ったことで「ハードで危険なトラッド」という分類から逃れることにもなった。いまや「スポート」でも「トラッド」でもない(ミニマルボルトと呼ぶのかもしれないが)、傍から見れば取り分けてセンセーショナルな要素のないルートなった。客観的に見て特別なことのない、あるいは日本のクライミング界にとって特に意味のないルートになったことで、逆説的だが自分にとってより特別なルートだと思えるようになった。

 

 三つ要点を絞ってみたが、結局のところどこまでも利己的にボルトを埋めたということがよく分かった。そもそも他の誰かのための開拓なんてありえるのか?そんな暇じゃないし、お人好しでもない。

 でも、登ってもらえたら嬉しいなぁ。。。



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