the Tribe フリークライミングの純度

 御茶ノ水の一画、これといって何の変哲もない通りの地下にぽっかりと空いた空間。階段を下っていくと、一種アトリエや博物館のような異世界的な時間が流れている。

この日はテルさんと大西さんのトークイベント。聴衆には普通だったら登壇する側でしょ、という著名なクライマーばかりで異様な緊張感があった。

テーマは「フリークライミングの純度」。

この面々を前にして急進的とも思える自分の考えをガンガン喋るテルさんに、やっぱ肝座ってるなぁというのが第一印象。

谷川でのフリーソロやハイリスクな山スキーは、クライミングとは何かを考えながらある意味実験として行っているようだ。そしてその固まっていない、いわば発展途上の思想をこういう場で惜しげもなく共有する姿勢が、強い信条を持つベテランの話を聞くのとはまた一味違って面白かった。イベントの後の歓談で、弱いところも未熟なところもちゃんと見せないとね、と言ってたけど中々できることじゃない気がする。


さて、本題のフリークライミングの純度という点について自分が理解した範囲で整理してみたい。

まず第一にここで言うフリークライミングとはスポートクライミングと対比されるもので、未知性や冒険性に重点を置くものとする。

道具や仲間など純粋なクライミング以外のものが介在することによってフリークライミングの純度は落ちるが、その不純物のラスボス的立ち位置に自己顕示欲がいる。SNSはもちろん、雑誌などのメディアや今回のトークイベントのように人前に出て自分のクライミングの話をすることで顕示欲はいつの間にか成長し、その欲は山を登る時にもねっとりと足元に纏わりついて純度を削っていく。要するに、自分のクライミングを誰かと共有することは完全なフリークライミングの観点からすると不純だよね、ってことだと思う。

フリークライミングをそういうものだとした上で、たとえ純度を落としてでもどんなクライミングをして何を思ったかを伝えることは大切なんじゃないか、とテルさんは言っていた。ジムから始める人がほとんどな現在のクライミング界を考えると、かの俗的な雑誌に寄稿して問いかけることも大事だし、自分が気づかなかった角度から思わぬ反応を生む可能性があるという意味でも必要なことなのだろう。


僕はといえばこの話を聞いて、岩と雪創刊号の巻末に書かれていた言葉を思い出した。

「登山とは登り、読み、かつ書くこと総てが綜合されて成立するものである。」

これを読んだときになぜだか分からないけど、スーっと腑に落ちるものがあった。表現の一つとして山に登るというのがしっくりきたようだ。

たとえば世界に自分しか存在しないとしたら、僕は多分クライミングをしてないだろう。他のクライマーに刺激をもらい、自分のクライミングを誰かと共有できるからこそ登っているような気がする。フリークライミングの純度は落ちるかもしれないが、クライミングが表現という行為を内包してるとしたら...。

そうだとしても、山に入ってる間、岩に触れてる間は自己顕示欲からは逃れたい。この怪物は虚しさという排泄物を撒き散らし、時として命を奪いかねない。自分をよく見せたいという魔の手を巧妙にかいくぐりながら、そのクライミングが自分の中に何を残したのかを認識し、表現し、受け入れたい。

そんなことをごにょごにゃ考えながら話を聞いていたので大事な部分が頭に入ってないかもしれない。テルさんにそーじゃないんだけどなぁと言われそう。


なんだかまとまりのない文になってしまったが、とりあえずあの場で終始リラックスして飄々と話してた大西さんはやはりやばい。



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