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人間劇場

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 多様性ってのは色んな人がいるってことじゃなくて、ひとりの人の中に多様な面があるということ という話を奇奇怪怪のどっかのエピソードで言ってて、ふんふん頷けた(んだけど文にして書くと陳腐に見える) 今更ながら栗城史多のドキュメンタリー「デスゾーン」を読んで、なんとなく実感した 栗城さんは自己表現の沼で窒息した3.5流の登山家(仮)というくらいのイメージでしか知らなかったが、そしてそのイメージは読後も変わらなかったのだが、 ただの「自己顕示欲の成れの果て」というラベルで括るには人間的すぎた 栗城さんのしょうもないところ、魅力的なところが切り離せずに描かれてくると同時に、筆者の河野さんのぐらぐらした人間像も浮かび上がってきて面白い ひとは歳月を経てどんどん変わっていくものだし、Aの主張をしながら反Aの行動をするような自己矛盾をいつも抱えているという、当たり前のこと かんがえてみれば、自分の中に躁うつ病的な地下室人的なところをいつも見てるくせに、他者にその感覚を投影することはほとんどない そのほうが分かりやすいし生きやすいから「アイツはこういうヤツ」って思っててもいいんだが、あくまで「便宜的にそう考えておいてるだけ」っていうアスタリスクを忘れないようにしておこう 東浩紀は「訂正する力」という本で、「訂正するひと」になれと言っている。訂正するひととは、「保留する力」のある人だとも言えるのではないか あの人は「○○な人」とラベリングすると、その人のあらゆる言動がそのラベルに吸収される。 ラベル付けすると理解しやすくなり、エネルギーを節約できる。 一方で、別の一面が見えたときにそのラベルを「訂正する」ことは難しい。 枠にはめてしまうと、枠から出すことに大きなエネルギーが必要になってしまう そういうラベルの付いた枠に入れることをせずに「保留する」 あの人は○○な人の面もあるけど、まだ違う面もあるかもしれない。これから変わっていくかもしれない。それは亡くなった人に対しても同じだ そもそも「○○な人」はニガテだという自分がまた変わるかもしれない ジャッジせず、ラベル付けせず、保留する それはたぶん、人間っておもしろいなぁ、くらいの感度で生きていくこと。

クライミングのセンス?

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 千葉雅也の「センスの哲学」を一気読みした。 ほんとに読了ほやほやなので全然まとまっていないが、ぽつぽつと頭に浮かんだ考えを吐き出してみようと思う。 とりあえず要点を書き出してみると、 ・センスとは、価値観はいったん脇に置いておいて、直観的なリズムに身を任せること ・リズムは非連続的(存在/不在)なビートと連続的(濃/淡)なうねりから成る ・リズムには一定の反復(予測可能性)と、そこからのズレ(予測誤差)があるから面白い ・遊びにはこのズレをシミュレートして、ある程度の外れ値にも慣れる機能があるといえる ・ヒトには生存本能に矛盾するフロイト的「死の欲動」があり、ズレのストレスを楽しむラカン的「享楽」をもっている ・反復とズレがほど良いバランスだと「美的」になり、ズレ(予測誤差)が許容範囲をこえて大きくなってバランスが崩れると「崇高的」になる ・遊びやゲームはあくまでも目的志向で、ハードルをわざわざいくつも作ってそのサスペンス(緊張状態)を楽しみながら目的達成の楽しさをシミュレーションする 芸術はその宙づり状態(サスペンス)のほうに重きを置いて「享楽」を楽しむ 垂直移動バカなのでやはりどうしてもクライミングのことだと思って読んでしまうんだけど、スポートやトラッドで「面白い」と感じるルートの条件にはリズムの良さがあると思うので、センスをリズムで定義するのはわりと直観的にわかる気がする。 もう少し深読みして、アルパインクライミングは芸術行為となりえても芸術作品を作るわけではないという前提で考えてみると、 登山やクライミングは、ピークあるいは完登という「仮の」目的を設定して、そのプロセスをわざわざ引き延ばし遅延して楽しむ遊びといえると思う。 さらに「登り切る」という目的意識を弱めていく(自己目的化する)ことで、偶然性に開かれてより芸術的な行為になるともいえる。 オリジナリティをもって登るとは、大自然という「崇高」な世界のなかで自分が面白いと思えるリズムをもっていそうなラインを探して、美と崇高のきわを捉えること、そして予測不可能なズレを楽しむ余裕を広げていくことではないか。 と、なんとなく結論めいたものを出してみたが、まるで間違った理解をしている気もする。 それはそれで新しいものを生むかもしれない「誤配」ということでご愛敬。